桑田の声帯に細心の注意が払われながら,数時間に及ぶ,手術が順調におこなわれていった。
「実は,桑田の手術の時,長時間かかると聞いていましたので,一人にしてもらって病室でビートルズのアルバムを順番に聴いていたんですよね。祈ることに集中したかったのと,桑田の好きなビートルズに,ちょっとでもすがりたいような気持ちもあったので一人静かに聴いていたんです。最初から順を追って聴いていく中で,ちょうど心配な頃に"Let It Be"がかかったりして。本当にあの時の "Let It Be"は心に沁みましたよね。手術が終わるくらいにかかったのは"The Long and Winding Road"でした。ホンとに不思議なことが色々あって,ビートルズの歌詞に"おっ!!"と思うようなことがたくさんあったんですよ。実は私,アルバムの順番を間違えちゃって最後にかかった曲が"ALL You Need Is Love"だったんですよ。そしたら無事手術がおわったという電話がかかってきたんです。』(原由子)
麻酔から意識を取り戻し,「桑田さーん」という周りの呼び声に「はーい」と答えた。すると同時に桑田の声が出たことへの喜びに病室は包まれた。
手術翌日からICU内を歩き,一週間予定されていたICUでの治療も3日で終る。その後,ウオーキングマシーンを時速3kmで歩くなど,周囲を驚かすほどの驚異的な回復を見せていく。
入院中は音楽のことをなるべく考えさせないという周囲の配慮とは裏腹に,現状の肉体と,自分の職業は音楽であるということを分けて考えていくことにより,未完成のアルバムへの制作意欲をさらに高めていく。
「病室で,まだ作っていない歌詞を考えたりしていました。でも,できなくてね。やっぱり,30分おきに先生が入ってくるでしょう。看護師さんとか。だからなるべく本を読んだり,音楽を聞いたり。『ボブ・ディランのテーマ・タイム・ラジオ・アワー」とか,小唄とか,ジャズとか。」
しかし,すぐに病室から,つくりかけの音源のチェックをし,スタジオへ次から次へと指示が出されるようになる。例えば『銀河の星屑』の最後の水の音は病室から出された指示である。
結果として,アルバム制作が中断されたことにより,客観的に作品を見つめることができたようである。
手術から20日後の8月22日に退院を果たし,復活への加速が増していく。立ちくらみ,咳などに悩まされながらも,退院後2週間で2週間でプールで泳ぎ,落ち込んだ肺活量も徐々に上がっていった。
そして10月8日「SO WHAT?」から歌入れが自宅スタジオにて再開される。
『周囲が思うような大げさな職場復帰ではなくて,何事もなかったように普通に戻ってきて,普通にレコーディングをしていたという感じでした。当然手術した所は体の中だし,歌を歌う上でどう影響するのかわからなかったので,声を出したら体がどうなるか,試し試しやっていく感じではあったと思うんですよ。でも初日からいきなり大声で歌っていた。普段から桑田さんが歌うときはものすごく大きな声なんですけど,手術前と遜色なくやっていたので,こちらが心配したぐらいでした。』(Recordingディレクター松元直樹)
『復帰されて,第一弾の曲はちゃんと声がでるのかなって,こっちも緊張しました。手術をした場所が場所なだけに,声に影響しそうだってことは聞いていましたので。でもそのときの“SO WHAT?”を今聴くと,本当に病気だったのかな?っていうくらいのすごい声が入っていて,びっくりしました。』(Recording エンジニア中山佳敬)
『病気が分かってから入院までの間,レコーディングエンジニアやミュージシャンの皆さんには,病気のことを内緒にしていてレコーディングを進めていました。その約2週間,桑田はすごい勢いで歌詞を作り,歌入れしていました。その姿には音楽への強い想いを感じましたし,何か不思議な力に導かれているような気さえしました。入院直前に,病気の事を皆さんにお話したときには,涙を流して心配して下さっ方もいたそうです。それだけに,レコーディングを再開できた時は本当に嬉しかったですし,その時の皆さんの笑顔は忘れられません。』(原由子)
10月15日,桑田にとっての音楽の聖地「ビクター401スタジオ」に戻る。
「SO WHAT?」「狂った女」そして,一番最後に「月光の聖者たち(ミスタームーンライト)」の歌入れが完成する。
11月1日『それ行けベイビー!!』に感謝の意味を込めてレコーディングスタッフ,斎藤誠,原由子のコーラスを依頼し,ダビングされる。
そして12月24日,アルバム制作のすべてが完了した。
評価:
エルヴィス・プレスリー,エルヴィス・コステロ,イアン・デューリー,アニー・ロス,マレーネ・デートリッヒ,ニルヴァーナ ミュージック・シーン ¥ 12,800 (2010-11-25) コメント:桑田佳祐さんが入院中,病室でよく聞いたCD |
評価:
デヴィッド・T.ウォーカー,ラリー・カールトン,ビル・メイズ,チャック・レイニー,ハーヴィー・メイソン EMIミュージック・ジャパン ¥ 1,658 (1994-02-23) コメント:桑田佳祐さん「入魂の一曲」 |
評価:
Joe Cocker Hip-O Records ¥ 874 (2004-01-13) コメント:test |
ごく一部のスタッフ・家族にだけ自分がおかれた状況を告げる。しかし,困惑する桑田とは相反して,妻である原由子は気丈な態度で,桑田を勇気づけた。
「原坊はそこであまりぶれなかったんですねぇ。彼女はインターネットだったり,いろいろなつてを使って,方々回ってくれて。で,僕はこんなだから,気持ちは半分虚ろな。もう,なんだかね……「虚ろなスキャット」が頭の中で鳴っちゃってるみたいな感じなの」
その後本格的な病理検査が行われ,結果が出るまでの約一週間,桑田は押し潰されそうな心でCTスキャンの中で「ベガ」の作詞をするなど,曲作りという作業で気を紛らわしていく。その時期に作詞された「グッバイワルツ」の詞には『川に浮かんだ月にはなれず/時代に流され参ります』と,誰にでもいずれ死は訪れるという諸行無常の境地に至った,その時の心を映し出している。また「傷だらけの天使」では『へこたれてんじゃねェ!!/スガる相手はこの俺じゃなく/明日のお前さ』と無意識のうちに自分自身を励ましている。
ごく一部のスタッフにしか,病気のことを告げず,粛々とレコーディングを続けたこの次期がもっとも辛かった時期という。
そして,一週間後,長時間の検査と麻酔で意識が朦朧とされている中,『ステージ?』の食道癌が告知された。ことのき,桑田は本気で自分が死ぬとは思いはしなかったが,同時にレコーディング中の作品が遺作になる覚悟をしたりと,複雑な精神状態だったようである。だが,初期ということもあり,次第に最高傑作のアルバムを完成させるという強い意志を取り戻していった。
8月2日,医師の計らいにより,手術室にボズ・ スキャッグスのアルバム「 スロー・ダンサー」が流れる中,桑田は深い眠りについていった。
ボズ・スキャッグス / スロー・ダンサー
いつもたくさんの応援ありがとうございます。
皆様にはこの度の、桑田さんの件で、大変ご心配をおかけしておりましたが、
お陰様で無事に手術を終えることが出来ました。
術後の経過も良好で、麻酔から覚めてすぐに声が出せたり、翌日には少し歩いたりと、
担当の先生も驚かれる程の回復を見せております。
ファンの皆様を始め、多くの方々より励ましのお言葉をいただき、本当にありがとうございました。
今後は、復帰に向けて頑張って参りますので、引き続きご支援いただけますよう、よろしくお願いいたします。
サザンオールスターズ スタッフ一同
デザイナー山口健一から,日本を代表するアーチスト桑田佳祐にふさわしい,厳粛で神聖な和の石庭のデザインが提案される。桑田自身,京都の石庭を訪問したばかりというタイミングも重なり,そのアイディアが採用される。ジャケットの質感にもこだわり,54〜55歳の男がリビングに飾りたくなるジャケットを要求する。
ジャケット中央の赤くペイントされた女性は心臓,日の丸,また石庭全体を小宇宙のようにもイメージしている。桑田さえも,このジャケットをイメージする明確な一つの答えは持っていないようである。答えは,それを手にしたリスナー一人ひとりが自由にイメージすればよいのである。
MUSICMAN 桑田佳祐
ミュージック・ジャケット大賞2011年において大賞を受賞する。
桑田佳祐コメント
この度は『MUSICMAN』を、記念すべき第一回「ミュージック・ジャケット大賞2011」の大賞に選んでいただいたとのことで、大変光栄に思っております。ありがとうございます。
この『MUSICMAN』は制作途中、病気のため途中作業を中断せざるをえなかったことなどもあり、とても思い入れの深いアルバムとなりました。おかげさまで数多くの方々にお聴きいただいているようですが、そんな作品のアートワークまでもが、高い評価をいただけたことを本当にうれしく思います。ジャケット制作に関わってもらったスタッフにも改めて感謝したいと思います。
これからも『MUSICMAN』以上に、皆様に楽しんでいただけるような音楽を作り続けていきたいと思っております。この度は本当にありがとうございました。
「MUSICMAN」というタイトルには最初,深い意味はなかったようである。当初はボブ・ディランの「明日への夜明け」「男と女」「光と影」のような対比させたタイトルを考えていたそうである。スタッフが持ち込んだジャケットデザイン用資料に偶然印刷されていた「MUSICMAN」という文字を見て今回のアルバムタイトルがひらめいた。
「MUSICMAN」には音楽人という意味合いが含まれているのではなく,抽象的・中性的な,「月」「太陽」といった天体,あるいは細胞の名前のような小さな断片というイメージがあるという。
定冠詞THEを付けてしまうと,ロボットや架空の生きものがイメージされ,本来意図するところからかけ離れるだけでなく,我こそはMUSIC MANということに繋がり,音楽の神様を睥睨することを怖れた。
伝説のストリッパー。本名・志水敏子。1949年(14歳)ローズ・マリーという名で浅草常盤座で初舞台を踏み、1950年15歳で浅草・常磐座の「亜熱帯の女ども」でデビュー。のち1951年(19歳)に改名してジプシーローズになる。
その彫りの深い美貌と見事なプロポーションの加え、1分間に60回も腰を振るグラインドを9分間の曲「リズム・オブ・グラインド」に合わせて踊り、「ストリップの女王」と謳われる程人気を得る。
昭和32年、ヌードダンサーとして名高かったジプシー・ローズは神経衰弱と肝臓病で満身創痍の体だった。ヌードショーの歴史は戦後から。
昭和22年、新宿で額縁ヌードショーが話題となり、これが日本のヌードショー第1号。額縁ヌードを披露したのは甲斐美春であった。静止画であった額縁ヌードがストリップとなったのはヒロセ元美からで、ヒロセは昭和25年から昭和27年頃にかけ、初めて鳥の羽の扇を使ったストリップで話題となった。その際の音楽がベサメ・ムーチョだった。
この頃のショーの小屋は東宝が日劇小劇場、松竹が東劇バーレスクだったが、昭和27年1月に日劇小劇場が解散、ストリッパーの呼び名がヌードダンサーとなったのもこの頃。
その後も企画のマンネリや取締りの強化などでヌードショーは昭和29年には衰退、東劇バーレスクも潰れ、失業しかかったヌードダンサーが大挙して押し寄せた浅草の公園劇場でナンバーワンだったジプシー・ローズが名前を売るようになる。ジプシー・ローズはディック・シルバー(後の岡田真澄)との共演などで話題を呼ぶ。
その後、日劇ミュージックホールでメリー松原、伊吹まり代らとヌードダンサーの姐御格として君臨したが、ジプシー・ローズはこの時分にはまだ28歳であった。
ほかには有名なヌードダンサーに狂死したアリ水木、既に引退したバイオレット滝、グレース松原などがいた。
内縁の夫で演出家の正邦乙彦と山口県でバーを経営していたが、1967年に常用のスロージンの空瓶を左手に急死。
引用 玉川和正+art random 建築・都市研究所
http://art-random.main.jp/top.html